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毒親と子のお話。

脱出したくて考えてきたことのまとめ。

お菓子は食べてもいい!

「もう大人なんだからいつまでも親のせいにするな」

よく言われる。

でもね、親のせいなんだから仕方ない。別に「親のせいなんだから私がバカなのは仕方ない!仕方ないんだから大目に見ろ!」とは言ってないんだから、親のせいだと思うくらいは許して。実際、思わないとやってられない。

 

語り合うスレ77-89

「お菓子売り場で汗が出る。お菓子を食べる自分が恥ずかしい、お菓子を買う自分が他人から堕落した人間だと思われる気がする」

 

こういう妙なひっかかりが細かいところにあってありすぎてどこにいっても苦しい思いをする。

たぶんこの人は、「お前がお菓子を食べると、子どもにお菓子食べさせるダメ親だと俺(父親)が言われるんだ(食べるのをやめろとまでは言わない、俺がどう思われるか察しろ)」とか、「家でまともな食事(量)を与えていないんじゃないかって俺が思われるんだ」とか、「お菓子は堕落した人間の食べるものだ。俺の子どもがそんなことをするはずがない」とか言われたんだと予想。予想ね。

遠足でお菓子買う日とか辛かっただろうなこの人。買えたのかな。買えたとしても「お父さんごめんなさい!」って思いながら買ったんだろうな。周りの子どもはお菓子を楽しんでて「89ちゃん、なんでお菓子食べないの?」なんて言われたら辛いだろうな。父親呪縛にかかってたら「お菓子なんて堕落したもの食いやがって下等生物が」って思ったかもしれない。

 

子どもは「父親が悲しむことはしないようにしよう」から自分に制限をかけていって、親が居ない場面でも動けなくなっていく。

「別にお菓子は悪いものじゃないんだから、嫌がる親に見つからなければいいんだw」ってこの時代に思える子どもなら毒親から脱出できると思う。脱出したかった。

 

親が居ない場面、学校や友人と会うときなどで価値観の違いに晒される。

食べてるのがバレるのが怖い。怒られるからじゃない。親が悲しむのを見たくない。親の評価が(親の周囲から)下がるのが怖い。(親の評価が下がると私が生きられなくなるから)

(食品として)食べてもいいものだけど、(子として)食べてはいけないもの。

友人に「私、お菓子嫌いなんだ」と説明する。「親が」とは言えない。本人の中では、食べられないものと食べてはいけないものと嫌いなものに大差はないから。

友人は「そうかー、お菓子嫌いなんだねー」と受け取る。そりゃそうだ。

私=お菓子嫌い確立。

 

お菓子の話で妄想をつらつら書いたけど、こういう「普通ならたいしたことじゃない細かいこと」でいろいろ縛られてる。

 

知育菓子(ねるねるとか)は添加物添加物うるさかったな。(調べたらねるねるは逆に添加物に気を付けてるお菓子じゃん)

うちの親の場合だと「私が作るお菓子を食べなくなるから(私のお菓子を食べて私を誉めろ)」が強いので添加物を悪者にしただけだろうね。市販菓子は高いのでねだられると困る(「貧乏だと私が思われちゃうでしょ!買ってやれないひどい親だと私が思われちゃうでしょ!」だけどね)

カラフルなお菓子はたいてい添加物だらけだから、ねるねるの成分がわかっても子どもから「なんでねるねるはカラフルなのに大丈夫なの?」と聞かれたら困るのもわかる。

この「わかる」が曲者で、これを聞いた他人は「カラフル=添加物認識はわりと間違ってないからよくあること」くらいしか思わないこと。さらに「気遣ってくれた良い親」とまで言う。添加物云々が本当か嘘かが問題じゃない。普通は「添加物は良くないからお菓子は食べてはいけない」認識だけど、「親が添加物を嫌うからお菓子を食べない」という親基準になってるのが問題なんだ。

親はきっかけ程度でいい。判断は自分でしていきたい。

 

毒親意識から脱出するために気を付けてること。

・自分の価値観を作る

自分が判断して好きか嫌いか決めること。

今までの判断基準が「親の価値観」だったから自己判断は何事においてもすごく勇気がいる。小さいことからやってる。

上記のお菓子の例なら、

・お菓子は食品として食べても良いものか

・一般的に食べられているものかどうか

基準を親から一般的に移動する作業。とりあえず(とりあえず!)。

ここから

・自分で食べてみて好きかどうか

これではじめて「私はお菓子が好き(嫌い)」と言えると思うんだ。

まずやったのは親の常識は世界の常識かどうかを疑う作業かな。ぐーぐる先生にでもきけばいいと思う。

普通という認識が歪んでて自信がない、土台があやふやなところに自分を乗せてるからぐらぐらするのは当たり前。自信っていうのは根拠がなくてもいいんだと最近は思う。普通の親なら幼少の不安定な時期に支えてもらえたから自信あるんだろうな。うらやましい。

 

基準が個人にあるものはむずかしい。

たとえば「痛い」はどの程度で悲鳴をあげていいものだろうか?

「その程度の傷はツバつけておけば治る」「泣いてないから」「血が出ていないから」と言われて納得していなかっただろうか?

痛いものは痛いんじゃバカタレ!

小さいか大きいかなんて問題じゃないんだ、痛いものは痛いんじゃ!

親基準から一般基準に移動するのはとりあえずであって、そのあとは個人差も受け入れていくこと。

私は自律神経おかしいから体温計が高温を示してなくても寒気がする。体温計が示してないからって我慢しなくていい。寒いものは寒いんじゃ!

あと、傷みと快楽は紙一重だからね。SMなんかで叩かれてキモチイイっていうのもアリだし。ぎゅーって抱き締められて苦しいけどこの苦しさが幸せvみたいなのもアリ。痛いとか苦しいのが悪いこととは限らないってこと。逆に一般的にはキモチイイって言われてることがキモチワルイこともある。「私は(世間とは違うけど)キモチワルイ(/キモチイイ)」と思うのは大切。

 

眼耳鼻舌身意→色声香味触法

つまり五感+心。

「感じる」のは個人の自由でいいと思うんだよね。

 

「私は、どうなんだろう?」って常識になっちゃってる生活から見直す作業をしてる。

靴下のはきかた、風呂で体を洗う順番、食べもの、ドラマを見た感想、などなど。

 

思う(感じる)までは自由。

(これをどうやって表に出すか(相手に伝えるか)は人付き合いノウハウとかでぐぐればいいんじゃないかな)

「思うことはあるけど(周囲からの評価を気にして)言えない」から「思うことはあるけどあえて言わない」に意識をかえていくようにしてる。思うまでは自由なんだから、たとえば社会的にどうよ?っていうことを考えたとしても、引かれるから「言えない」という周囲を気遣ったよ意識じゃなくて、引かれて自分が嫌な思いをしたくないから「言わない」という自分の判断にする。

嘘をつくのが苦しいので嘘にならない程度の言葉を使うとかしてる。「考えてもいい(考えるとは言ってない)」とか便利だと思ってる。

 

親のせいにするなって言われるけどやっぱり親のせいだ。親のせいだって思うまでは自由だから。

自分の責任っていうなら、「これからは」をつけたい。

自分で感じて、自分で選んだものは自分の責任。これは理不尽に責任が降ってくる世界じゃないなら言える。

「親が嫌な顔するからお菓子は食べられなかったけど、私はお菓子を食べてもいいと思うし、私はお菓子はおいしいと思う」と言えるようになりたい。