毒親と子のお話。

脱出したくて考えてきたことと、脱出してから考えてること。

個人になる。

個人になる。

 

自分の問題点を探るうちに、「私が困るのは他人とのコミュニケーション」だと気づいてきた。

毒親世界での常識→私の常識→他人には通用しない→他人とうまくいかない

「問題は全て他人との間で起こる」んだよね。

「対人関係で問題」はアドラー心理学の最初にでてくる(wiki)

 

 

そう、私個人では困っていなかった。

毒親との家庭で私は困っていなかった。

私が外界に触れた時に困り始めた。

 

私がペンを2本買っても、私が「おねえちゃんだからね!私良いおねえちゃん!」と思っていたなら、なにも困ってなかったんだ。なんでお金の減りがはやいんだろうと思っても「良いおねえちゃんだから!」で吹き飛ばせるくらいには困ってなかった。

 

不定休の社会人は定休の友達と遊びたい時に困る。不定休だから困るんじゃなくて、定休の友達と休日を(どちらかが、もしくは両方が)合わせなきゃならないときに困る。

 

・他人と合わせようと思うとき

・他人から「お前、おかしいよ」と言われた時

・他人に対して嫉妬した時

 

もうひとつ、

 

・一般的な常識と自分がずれているとき

 

ああ、なるほどって思った。

 

 

 

問題がおきたとき、まず自分だけなら困るかどうかを考えること。

 

例えば、他人から「洗濯してないだろ、臭いぞ」と言われたとする。

「臭いぞ」は言われたら傷つくので(なんで傷つくかは今は考えない)、洗濯しなきゃって思う。でも自室で一人ならどんなに臭くても汚くても自分が平気なら大丈夫なんだよね。(買い物先や大家のことは今は考えない) 他人と会うときに他人が困るなら、他人と会うときだけ対処すれば解決。 もしも、相手が「臭いのが好き」と言ったら、むしろ、臭いまま会う…かもしれない。

洗濯するというのは他人の常識であって自分の常識ではない。ここにズレがある。このズレをなんとかしようとする時に困るわけだ。

相手側は「相手が臭い」のに困ったが、自分のせいではないので、相手(私)に対処を求めた。

相手も洗濯しない族だったら相手も困らないので問題はない。

(そしてこの二人が他の人に「あいつら臭い」と言われる…のはまた別の話)

 

この二人の間では困ってなかった。

毒親との生活ではそれほど困ってなかった。(うちは暴力系なかったので)

困り始めたのは幼稚園や学校行ってから。でも学校って個人の性格や(自分の)常識を出すところではないので、学校生活でというより、学校で出会った友達とプライベートな付き合いを始めた時かな。

(私おかしい?程度なのでまさか親がおかしいとまでは気づけなかった)

帰宅すればさほど困らない。

困った時が気づくチャンスってことだったんだな。

 

 

 

 

他人と違うのがそんなにおかしいことだろうか?

他人や常識と違うけど自分が困っていないならいいんじゃないのか?

むしろ自分はこれでいいと思うならいいんじゃないのか?

 

まず、「おかしい」という言葉に対して嫌な感じをもっていないだろうか。

(余談:「おかしい」を漢字にすると「可笑しい」になるし、「いとをかし」は「たいへん興味深い」になると習った。気休め。)

他人が「おかしい」と言うときは「一般的常識と違うからなんとかして。私はこのまま、貴方が変わるべき」という意味の命令なんだよね。じゃあ一般的常識ってなんだよ?っていうと、社会という集団生活をするために大半が心地よいと思われる擦り合わせをなんとなくふわっとおしつけられてるものなんだよ。

(ここで言う「常識」とは、「jk(常識的に考えて)」とか「常識でしょ」的に他人から押し付けられるテメェの常識であって、みんなが知っているべき(日常の常なる識)事柄ではないのです。モラル?マナー?ぴったりくる言葉があったら教えて下さい)

(最近jkは女子高生の略で使われることが多いかも)

(「常識をかざしてくる=多勢の意見としての圧力」くらいに思ってもいい)

 

おかしいことは個性だし。

円周率をなん桁も言えるのも、戦国時代を見てきたかのように語るのも、声優を聞き分けられるのも、おかしいことだし。

自分一人なら何もおかしいことはない。

 

しかし私たちは社会という他人と交流していかなければならない。

(洗濯しない族の二人もコンビニに行くだろうし)

そんな時は他人と会うときだけちょっと我慢すればいい。

「私は気に入らないけど我慢して仕方なくあなたに合わせてあげてるのよ」くらいの気持ちで。自分の根本(自分の個性や自室での生活)まで変える必要はない。(有か無かで考えるクセから自分の根本まで変えなきゃって気分になるのは気を付けて)

 

 

わたしはわたし、あなたはあなた。

私は個人、あなたも個人。

私とあなたが仲良くしたいなら、妥協点を作りましょうか。

 

 

 

毒親持ちの常識は、毒親という「歪んでいる」「毒の気分でころころ変わる」「明確ではない」常識だし、

自分がおかしいからなおさなきゃと思い込んでるし、

個性なんか持つ余裕がない(見つかり次第潰されていく)から「私は困ってないもん」という開き直りすらできないところにいるし、

それでも(毒親の)常識に合わせなきゃと思うことでさらにふらふらしていくし、

他人との常識にも合わせなきゃならないし、

もう、ぼろぼろ。

 

答えがない不安定な世界にずっと居て、答えを求めても得られないのが常になっちゃってて、常識や他人の言うことの答え合わせをできない。どこでズレているのかがわからないと擦り合わせも難しい。

ズレをズレだと認識するには自分の常識を持ってないとふらふらする。

ふらふらしまくり。

 

毒親持ちが「できない」っていうと「やらないだけだろ」ってよく言われるけど、どこに進んでも行き止まりしか見えないようになってて動けなくなってるんだよ。

あやふやで見えない尖った壁がすぐ側にあるんだ。

 

だからだろうね、助けてもらえそうな意見を聞いてしまって、あっちにふらふら、こっちにふらふら。

 

「ソラは他人の意見に振り回され過ぎ。もっと自分を持ちなさい」

 

私は、脱出したいと思える自我の核が生き残っていたことをうれしく思う。まあ、これで他人との違いに気づいて困りごと増えたんだけどさ(笑)「私」が殺されるよりはましかなって今は思うんだよね。

 

 毒魔法にかかったままの人はこのブログにたどり着いても他人事としか認識しないけど(困ってないから)、脱出したいって思ってる人は、毒親がおかしいって気づいてるんだから、「私」はまだ死んでないよ。

 

 

個人って壁つくっても土足でプライベート踏み荒らしていくのが毒親だからねー。

 

 まず意識だけでも個人になって自分の感覚を気にしていったらたぶん個性はみつかる。(なんだったらむりやり作ってもいい。思い込みは力になる。) そこから他人と仲良くする方法を考えていきたい。

自分の感覚を初心になって考えてみるっていう私の作戦は間違ってなかったのかも。

  

 

 

 

違うもの、とは、ストレス。

違いにストレスを感じる。

ストレスがない世界は心地よい。

でも、ストレスがないと世界は回らない。

だから、嫉妬も劣等感もあっていい。

適度な刺激は大切ってこと。

 

 

違いがあるから楽しいんだし。

 

 

 

痛いと気持ちいいは紙一重。

 

 

 

 

「擦り合わせ」って、角を削って二つが快適になること。

 

 

 

 

 

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